山口鷺流の実質的な元祖は、明治初期に春日家の10代目の家督を継いだ『春日庄作(荘作)』である。春日庄作は、長州藩士佐々木三右衛門の次男として文化13年(1816)に生まれ、明治30年(1897)に没し、現在山口市道場門前にある本圀寺にその墓所がある。
明治維新の混乱により、長州藩の狂言役者も窮乏した。庄作も明治10年(1877)2月に春日家の家督を継いだ後、厚狭郡で農業に従事したりしていたが、明治18年(1885)には家督を譲り、平民籍となる。同じ年に、山口に狂言の稽古に来ていたことが、山口市歴史民俗資料館蔵の『狂言之絵』に添えられた「狂言江絵入名寄」に記述がある。庄作が定住するのは、翌19年(1886)の野田神社上棟式の神事能に招かれてからのようである。それ以後、庄作は山口の素人衆に狂言を教え、(また、おそらく種々の台本を書き写して)最晩年を過ごすことになる。
山口における春日庄作の門弟には、吉見安太郎・西村直太郎をはじめ十数名がいたという。庄作とその弟子たちが没した後、衰微した山口鷺流を支えたのは、田口光三、吉見安太郎、吉見の弟子中西治郎といった人たちであった。この中西とやはり吉見門下の河野晴臣(本名三十)の尽力によって、春日庄作以来の山口鷺流の伝統は現在まで守られたといってよい。ことに、中西治郎は多くの狂言台本(手附本と称する)を保管し、それらの資料の多くは、現在山口県立大学郷土文学資料センターに保管されている。
山口鷺流狂言保存会では、歴史ある鷺流狂言(山口県指定無形文化財)を後世に伝えるために、同好者を広く求め、伝承者を育成することを目的として、伝習会・定期公演・小中学校での公演・その他依頼公演等の活動を行っている。