山口に伝わる鷺流狂言は、長州藩抱えの狂言の流れを汲むものである。鷺流は、大蔵流・和泉流とともに狂言の三流儀をなしていたが、明治維新後急速に衰微し、明治28年(1895)に宗家が絶えた後、それを継ぐ者はなく、流儀としては滅亡に至った。その鷺流の流れが、ここ山口に奇跡的に伝えられているのである。
鷺流は、鷺仁右衛門宗玄(1560~1650?)を事実上の祖とする流儀である。
この鷺流には、宗家である鷺仁右衛門家と、分家である鷺伝右衛門家があった。この二派の間では演目や台本(詞章・演出)も異なっていたのである。鷺伝右衛門家は、仁右衛門宗玄の甥・伝右衛門政俊(1608~1680)に始まる家である。
江戸時代、能・狂言は武家の式楽(幕府公認の儀典用芸能)と位置づけられ、江戸幕府を始め、地方諸藩に至るまで、多くの能・狂言役者が召し抱えられることになった。そうした状況の中で、鷺仁右衛門宗玄は、徳川家康の愛顧を受け、その命によって慶長19年(1614)、能の筆頭格である観世座(現在の観世流)付きの狂言方となった。そのため江戸期を通じ、鷺流は、大蔵流とともに幕府直属の流儀として栄えたが、明治維新という大転換期に際して、衰退を余儀なくされることになる。
衰退の理由として、①多くの有力な役者が江戸に集中しており、幕府以外で鷺流を採用していた藩はごく少数であった、②最後の宗家・鷺権之丞(1842~1895)は、明治初年、突然佐渡へ赴いたまま消息不明となり、その後京都郊外で農夫をしているところを見出され、東京へ連れ戻されるが、流儀を統率することができず、不遇のうちに没した、③鷺流の有力な役者が、維新直後に、能・狂言と歌舞伎の折衷演劇である吾妻能狂言に参加し、能楽界から離れたことが指摘されている(小林責氏「山口鷺流の歴史と芸系、現状、特質」、『山口鷺流狂言資料集成』山口市教育委員会、2001年所収)。
大正11年(1922)には、東京在住の鷺畔翁(鷺健次郎賢通の養子)が没し、東京の鷺流は完全に滅亡した。また、これに先立ち、明治15年(1882)五月、分家・鷺伝右衛門家の最後の当主と思われる鷺供辰が、病気を苦にして、東京日本橋鉄砲町の自宅で割腹自殺している(『東京絵入新聞』)。
江戸期を通じて鷺流を採用した藩は少なかった。その極めて珍しい例の1つが萩を本拠とした長州藩(毛利家)である。長州藩抱えの狂言は、大蔵・鷺の二流であった。江戸末期の時点では、大蔵流として春日・原・山本の三家、鷺流として江山・山本・嶋田の三家があった。
明治19年(1886年) | 野田神社上棟式神事能に元萩藩お抱え狂言方『春日庄作』が狂言を勤める山口伝承の起源とする |
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昭和29年(1954年) | 山口鷺流狂言保存会結成。初代会長水野文雄。山口県指定無形文化財に指定される |
昭和32年(1957年) | 山口女子短期大学(現山口県立大学)の教授故石川弥一氏が「山口に残存する鷺流狂言」を刊行。世間に鷺流の残存を発表 |
昭和37年(1962年) | 伝習会が発足。定期的な稽古の場ができる。山口市中央公民館を会場とする |
昭和42年(1967年) | 文化財保護法改定により山口県指定無形文化財に改めて指定される |
昭和46年(1971年) | 技術保持者河野晴臣が私費を投じ「鷺流狂言手附本 附小舞間」刊行 |
昭和47年(1972年) | 「鷺流狂言手附本 追巻 府間三曲」刊行 |
昭和48年(1973年) | 文化庁の要請で能楽研究家の小林責氏が調査に訪れる |
平成10年(1998年) | 2代目会長樹下明紀就任 |
平成12年(2000年) | 国立能楽堂(東京)にて佐渡鷺流狂言研究会、高志狂言保存会と初の三鷺流関係団体が集い、公演を行う。 |
平成13年(2001年) | 「山口鷺流狂言資料集成」刊行 エネルギア伝統文化賞受賞 天皇陛下(当時皇太子殿下)山口ふるさと伝承総合センターにて御覧 |
平成14年(2002年) | 法政大学能楽研究所より催花賞受賞 |
平成15年(2003年) | 読売山口メセナ大賞受賞 |
平成17年(2005年) | 保存会として初めての新作狂言「大仏くらべ(原作大江隆子)」上演 |
平成20年(2008年) | 山口県立大学公演開催。この年から10年間続いた |
平成23年(2011年) | 秋篠宮殿下妃殿下御覧 |
平成24年(2012年) | サントリー地域文化賞受賞。副賞で装束を新調 東京文化財研究所主催の公開学術講座(東京国立博物館平成館講堂)出演 |
平成27年(2015年) | アメリカケンタッキー州センター大学のノートン芸術センターにて公演、山口県立大学の学術交流の一環として100年ぶりの海外公演 |